竪琴の湖で漁師を営むシリオンの元に、ある日突然、王の出現の噂が舞い込んでくる。それと同時に、聖都では影と呼ばれるエルフがヴォルフ卿の暗殺を目論んでいた。その二つの動きは、どちらも神の王国を立ち上げようとする動きではあったのだが――
本を開くと、最初に”The World of Eden”の地図が目に飛びこんできます。なんとなく目にしてきた地域の地図に「果てなしの平原」「魔法使いの谷」「竪琴の湖」・・・といった魅力的な地名が書かれていて、「宝島」の地図を見ているような感覚になります。ワクワクしてきます。聖書舞台がファンタジー界に変身し、招いてくれているみたいです。 読み始めたばかりのときは、聖書の内容や登場人物と、『イスルイン物語』の世界の整合性が気になりました。が、読み進むうちに、カチコチの頭がどんどんほぐされていくのを感じました。この作品で驚かされたのは、まず作者の聖書知識の豊富さと読解の深さです。それを下敷きにして書かれているため、物語世界に飛び込むと、実は聖書そのものの生命にひたされていきます。 2つめのことは、文章がけっこう緻密なのにも関わらずすんなりと読める、簡単に言うとうまいのです。だから、読んでいてしんどくなりません。歴史上1回きり来てくださった人間になった神の御子の人物像、その周辺にいた人たちの想いや言葉のやり取りに、ドキッとさせられるような発見があります。 例えば、こんな文章です。 『何かが弾ける音がして、シリオンは暗闇の中で目を覚ました。服も髪も汗でびっしょりと濡れていた。心臓が早鐘のように打っている。まるで湖に潜ったあとのように呼吸が早かった。「あれま、起こしちまったかね」女中ローダの声がした。・・・』 聖書の翻訳文章のかたいところを読みやすい言葉に直しただけというのではありません。物語世界で冒険する人物に自分がなりきった感覚になってくるような文章です。3つめに、この作品は、執筆された目的がはっきりしています。天地万物を造られた方がおられ、読者を招いてくださっていることを伝えるというぶれない力が作品全体にみなぎっています。 この目的のためにいのちがけで取り組んでいるであろう作者は、永遠に価値あるもののために代価を払うことをいとわない人に変えられた方だろうと思いました。作者にお会いしたことはありませんが、才能ゆたかな大人がものすごい時間とエネルギーを投入してこの作品を書き続けていることを考えたとき、聖書が人に使命を与えることの意味に圧倒される想いがしました。この作者を動かしている方が、作品を読む人の内側にも、働きかけてくださる、読む人をそれまで「見えなかった世界」に気づかせ、その人にふさわしい道に導こうとしてくださっていると、確信させられました。
「イスルイン物語」読んで、イエス・キリスト様を弟子たちの目で見て、とても新鮮な気持ちです。それぞれの弟子たちはどのような背景から来て、どのようにイエス様の招きを受け止めて、また主に従った時にどのような疑いや困難を経験したかはとても関心のある課題です。聖書はそのような事の一部しか語りませんから、読む人が創造力を使って、色々考える事が出来ます。聖書の解釈や適用にそのような創造性を使います。ファンタジーと言ったらそうですが、イエス様の姿を見るにはとても役に立つ事です。 「イスルイン物語」は一般のファンタジー物語と基本的に違います。探偵小説のように吸い込まれる、とても読みやすいだけではなく、新約聖書の福音書のストーリーに忠実で、イエス・キリスト以外の人物の背後やイエス様との接点などはフィクションで書いたり、出来事を上手くもっともらしく繋ぎ合わせたりして、聖書を以前よく知っている人に新しい見方を提供すると同時に聖書を知らない人を物語の中に聖書のメッセージに導いていきます。 著者は聖書のみ言葉に何も付け加えてはいけないと言う黙示録の警告を本気で受け止めて、すべての人物と場所に聖書と違う名前を与えています。書き方はとても上手で聖書の物語に導く意味で大いに勧める本です。広く用いて頂きたいのです。新しいタイプのファンタジーで、多くの言語に翻訳する価値があります。
一般の出版社が刊行するキリスト教に関する書籍はよく売れるとも聞いています。しかしその一方で、「学生に贈呈した聖書が道端に捨てられ、酷い場合はその上に破られていることがあります。」と某聖書贈呈団体の方から伺ったことがありました。そういったところから多くの日本人はキリスト教に対し二極化した考えを持っているようです。 その一つは「キリスト教に興味はあるが、どっぷり浸かることは避けたい。」ということです。それはキリスト教に限らず宗教全般に対する警戒心から来るもので、キリスト教であれば「教会の門をくぐるのにすごい抵抗がある、もし入ってしまったら抜け出せないような気がする。でも聖書にはどんなことが書いてあるのか、教会はどのように出来がって現在に至るのか、教会ではどんなことをしているのか、それらに興味がある、知りたい。」ということになるのでしょう。 二つ目は「キリスト教に対する価値を見いだせない。」ということではないでしょうか。これもキリスト教に限らず宗教全般に言えることだと思いますがキリスト教の場合だと「聖書を読んで心がワクワクするような、楽しくなるようなことが書いてあるとは思えない。堅苦しそうなことしか書いてないのではないか。だったら結構だ。」楽しいことに価値を見出しているので触れたくない、関わる気が起きないということです。 しかし、そんな現代の日本人のニーズにぴったりな小説。それが「イスルイン物語」です。私がまず魅かれたのが人物の名前です。新約聖書の福音書がストーリーのべースになっているのですが、それとは殆ど名前が違っています。しかも洒落た名前ばかり。アンディア、シリオン、バディーホース等々。これだけでもワクワクしてきます。次にストーリー展開。映画を観ているような臨場感がこの作品全体にあります。また人物たちの仕草や思いの描写が詳細に描かれていて実に面白い。いつの間にか自分自身が登場人物になったような気になります。しかしそうでありながらしっかりと福音書の核が中心にあります。多くの日本人に抵抗なく聖書の、教会の伝えたいことが伝わります。きっと。
エルフ、人間、ドワーフ…『ロード・オブ・ザ・リング』を彷彿させるファンタジーの世界観で書き直した福音書の再話。さしずめ、1998年に一世を風靡した『小説・聖書』の「ファンタジー版」と呼びたい。イエス、ペテロ、ペテロの妻、バラバ、アリマタヤのヨセフ、ニコデモ、トマス、マリヤたちが、ファンタジーの世界の住人として生き生きと動き出す。福音書(特にヨハネ)の文言を極力残しつつ、大胆であたたかな想像を膨らませる記述もどっさり。聖書の本筋から外れた気がせずに、福音書の出来事がより立体的になった読後感がある。弟子たちや登場人物たちの心理が「そうだったかもなぁ」と思ったり、読み飛ばしていた脇役がクローズアップされて「会いたい人」になったり。その真ん中で一人一人に眼差しを向けるイェシュア(イエス)の真摯さがグッと迫ってくる。(特に最後。「ペテロ」と「イエス」の再会前後の心理描写は泣けた。) こうした冒険は、フェアリー・テールの世界に舞台を置き換えたからこそ許されるだろう。好みは分かれるだろうが、『ロード・オブ・ザ・リング』を観た方には、ぜひ読んで戴きたい。友だちに「ファンタジーファン」がいれば、「こんなキリスト教の入り口もあるよ」と渡してみてほしい。そしてぜひその自由な感想(ツッコミ)から話を始めてほしい。 C・S・ルイスは詠う。「(ファンタジーや神話が)子ども時代に私にとってキリスト教を無味乾燥なものに思わせた、ある種の抑圧を事もなくすり抜けさせてくれる…。神について、キリストの苦難について、こう感じなければならないといわれたとたんに、そのように感じることがむずかしくなるのはなぜでしょうか? 主な理由は、……すべきだといわれることにあるのです」。だからおとぎ話は「読者に、彼がいまだかつてしたことのない経験を与えることができますし、それによって、“人生を解説する”代わりによい多くの風味を加えるのです。」(「フェアリー・テールについて」)。 この手の本が苦手な人はいるし、「神聖な福音書をこんなスタイルにすべきでない」と言う声も聞こえるだろう(「神の小屋」も思い浮かぶ)。著者は、そんな声も真剣に受け止め、悩み、出版も止めデータも消すかぐらい凹んだ。そこから謙虚に踏み出した、著者の献げ物。ぼくは、キリスト教が「無味乾燥な解説」だと思っちゃった残念な人たちにとって、「かつてしたことのない経験」へと導く役割を(少なくとも、ファンタジーファンにとっての語り部訳を)本書が果たしてくれるとワクワクする。海外で出版されたら、コメントの嵐が来るだろう。やんやの「ツッコミ」は非難じゃなく、楽しんでいるしるしだ。「これは好きだ、こっちはこうだ」と盛り上がって、聖書の世界が無味乾燥ではなくなっていき、イェシュアに惹かれる人が出て来るに違いない。 欲を言えば「続編」が読みたい。「エルフと人間」に置き換えた「ユダヤ人と異邦人」の対立の大きさ、その和解という福音のダイナミックさは、「使徒の働き」においてこそ更に鮮明になるのだから。
エルフ・半エルフ・人間・ドワーフなどの色分けをすることで、イエス様のおられた当時の様子がより感覚的に理解でき、登場人物の脚色は別として、聖書の教えやたとえがわかりやすく説明されており、特にクリスチャンホームの子供達にとって聖書理解の助けとなるのではないかと思わされました。創造主を排除した小説が多く出版されている昨今、このような聖書を背景とし、創造主のおられる世界観に立つ小説が多く出されることを心から願っています。